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師匠シリーズ《続》
[8] -25 -50 

1: 1 ◆LaKVRye0d.:2017/1/24(火) 20:30:02 ID:1lmoPahM2s

ここでは、まとめの怖い系に掲載されている『師匠シリーズ』の続きの連載や、古い作品でも、抜けやpixivにしか掲載されていない等の理由でまとめられていない話を掲載して行きます

ウニさん・龍さん両氏の許可は得ています

★お願い★

(1)話の途中で感想等が挟まると非常に読み難くなるので、1話1話が終わる迄、書き込みはご遠慮下さい
(代わりに各話が終わる毎に【了】の表示をし、次の話を投下する迄、しばらく間を空けます)

(2)本文はageで書きますが、感想等の書き込みはsageでお願いします

それでは皆さん、ぞわぞわしつつ、深淵を覗いて深淵からも覗かれましょう!!





121: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:15:54 ID:HMJYUJcabU

「一階の子どもたちはそれでいいでしょう。でも二階の子どもたちはどうです。この園舎の構造上、二階の階段から降りてくれば、事務室の前を通らずにそのまま玄関から外へ出られるのではないですか」
「二階の子は、一番上でも二歳児ですよ。その日の午前中も外ヘは出していません。一人で出て行くなんて…… 第一、外へ出ても二歳児にあんなもの描けるもんですか」
悦子先生の言葉に、僕もハッとした。
そうだ。魔方陣なのだ。
二歳児が五歳児だろうと、そもそもそんなものを子どもが描けるものだろうか。
思わずもう一度くだんの写真を覗き込む。
園庭に描かれた円の中には幾何学的な模様が浮かび上がっている。適当にイタズラで描いたものとは思えない。そこにはなんらかの意図が感じられる。
あらためて気持ちが悪くなってきた。
「これ、どうやって描いたんだろうな」
ふと思いついたように横から師匠がそう言う。
「木切れとかでガリガリやったんですかね」
「そんなもの落ちてるか、保育園に」
しかし手で描いたとも思えない。
「傘、じゃないでしょうか」
おずおずと、当の写真を撮った二歳児の担任の洋子先生が言う。
「その日は雨が降るかも知れないっていう予報だったから、みんな傘を持って来ていました。下駄箱のところの傘立てに一杯置いてありましたから」
なるほど。傘の先で地面をガリガリとやったわけか。
「傘立ては玄関のところと?」
「一階の部屋の外の下駄箱にもあります。一階の子はそこから出入りするので」
「傘か……」
師匠はそう呟いて立ち上がり、開け放しているガラス戸のそばに立って外を見つめる。
そしてくるりと振り返ると、「カーテンはすべて閉めていたんですよね」と訊いた。
外は大雨だったのだ。一階の部屋だけではなく、二階の部屋も、そして事務室や調理室もすべてカーテンが閉まっていたと、先生たちは証言した。


122: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:17:54 ID:HMJYUJcabU

「子どもたちの傘はカラフルです。誰かがその傘を手にして地面に魔方陣を描こうとしたら、カーテンの隙間から見えてしまったりはしないですか。いや、もし魔方陣が描かれたのが雨が降っている間だったとしたら、その誰かは地面に描く道具としての傘だけではなく、自分がさすための傘も一緒に手にしたのではないでしょうか。だとすれば目立ちますね。ほんの少しでもカーテンの隙間があれば……」
先生たちの間に動揺が走った。
師匠はそれを見逃さない。
「なにかありましたね」
促されて悦子先生が口を開く。
「私が担任をしているアキラくんが……」
青いものを見た。
そう言っているらしい。
昼寝の時間に、ふと目が覚めたとき、ガラス戸のカーテンの隙間から青い色のなにかを見たのだと。雨の中に。
気にせずまた寝てしまったが、絶対に見たんだと言い張っている。
他の子は誰もそんなことを言っていない。五歳児のアキラくんだけの証言だ。
「青いもの、ですか。この部屋からですよね」
師匠は外を見つめる視線を険しくする。
園庭の向こうにはフェンス沿いに木が並んでいる。まさかその枝葉のことではあるまい。
「青い傘を持って来ている子は?」
という師匠の問いに、「いっぱいいると思います」という答えがあった。先生の中にも青い傘を持って来ている人は何人かいて、その日、玄関の下駄箱にも確実に青い傘はあったのだそうだ。


123: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:19:38 ID:pIgPmzpxL2

「まあ、魔方陣と関係があると決まったわけでもありませんが」
師匠はそう言ったが、あきらかになにか疑っている顔だ。
「その日、十一時から二時までの間しか雨は降っていません。降り出してからはすぐにみんな園舎に入り、その後誰も雨が上がるまで外に出ていません。確実に言えることは、雨が上がって騒動が持ち上がった時、濡れた傘が一本、もしくは二本傘立てにあったとしたら、その傘を置いたのは雨が降っている間に外に出て魔方陣を描いた人物の可能性が高い、ということです」
師匠の言葉に僕は感心した。
そうか。その日、誰も傘は使っていないはずだ。使ったとすれば、こっそり外へ出る必要があった人物だけ。
濡れた傘が傘立てにあったとしたら、それはすなわち魔方陣を描いた犯人のものに違いないのだ。
そこまで考えて僕は、いや違う、と思った。犯人が自分の傘を使ったとは限らない。まして外部からの侵入者だとすれば当然だ。
しかも、保育士たちは揃って首を横に振った。誰も下駄箱の濡れた傘など確認していないのだ。
その騒動の中、そこまで知恵が回らなくても仕方がないと言えた。もはや唯一と言っていい物証も断たれたようだ。
しばし沈黙が降りた。
「あの…… そう言えば私、一度外を覗いたんですが、その時見たものがあるんです」
悦子先生が思い出したようにそう言った。
外が光って雷が鳴った時だ。ガラス戸のところまで歩いて、カーテンの隙間から外を覗いたら、緑色のタオルのようなものがフェンス際の木の枝に引っかかっているのが見えたのだと言う。
雨だけではなく、風も吹いていたのでどこかから飛ばされて来たのだろう。


124: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:21:19 ID:pIgPmzpxL2

「青ではなく、緑だったんですね」
「はい」
なら無関係か。いや、元の青いものからして魔方陣と関係があるのかよく分からない。
「そう言えば私もそれ、見ました」
それまでずっと黙っていた由衣先生が口を開いた。一歳児の担任の先生だ。四人保育士の中で一番気が弱そうで、心なしか顔色も悪い。
「雷が鳴って驚いて振り向いたら、あの辺の木の枝にタオルが引っかかってるのが見えました」
外に向かって指をさした後、「緑色、だったと思います」と、そう付け加えた。
他の先生にも訊いたが、三・四歳児の担任の麻美先生は雷が鳴った時、カーテンの方は見たが、外は覗かなかったと言い、二歳児の担任の洋子先生は机でうとうとしていたのか、雷には気がつかなかった、と言った。
「魔方陣が見つかって騒ぎになった時には、その緑のタオルはありましたか」
先生たちは顔を見合わせる。
やがて悦子先生が口を開く。
「それどころじゃなかったから、はっきり覚えていませんが、あったと思います」
同じ木の枝に引っかかっていたはずだ、と付け加える。
「誰か拾った?」
などと先生たちは話し合い、結局誰もその後のことは分からず、また風でどこかへ飛ばされたのかも知れない、ということに落ち着いた。
「これにも写ってないかな」
師匠はそう言って、写真をまじまじと見つめる。
僕や他の先生たちも顔を寄せ合って魔方陣発見直後の写真を覗き込むが、フェンス際の木にはそれらしいものが見当たらない。
「ああ、でも幹に近い枝のあたりだったから……」
悦子先生が言った。
なるほど、二階から撮ったこの写真では角度的に生い茂る葉で隠れてしまって見えないのかも知れない。


125: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:23:30 ID:HMJYUJcabU

結局なにも分からない。
僕は溜め息をついた。
「緑ねえ」
その時ふと思いついた。
その青いものを見た、というアキラくんがおじいちゃん子、おばあちゃん子ならもしかすると緑色をしたものを「アオ」と言ってしまうかも知れない。
お年寄りの中には「緑」のことを「アオ」という人もいるのだ。それを聞き慣れていた子どもならひょっとして……
だがそこまで考えて、はた、と思考が止まる。
だからなに、という感じだ。一応口にしてみたが、やはり師匠はそんな反応だった。
アキラくんが見たものが実際は緑のタオルだったとしても、誰かが傘を持って外にいたことを否定するものではない。もちろん傘を持って外に出ていた人はいなかったかも知れないし、いたとしてもその誰かが魔方陣を描くには足跡の問題が残ったままだ。
また沈黙がやってきた。
チチチ。
と、ガラス戸の外を小鳥が鳴きながら飛び去っていく。
嫌な静けさだ。
それから師匠が念のため、と言い置いて一階の廊下側から外へ出るもう一つの出入り口のことを確認する。
事務室の前を通らず、反対側へ進むと裏口の扉があり、その外はプールにつながっている。しかし普段は子どもたちが勝手にプールの敷地へ入らないように内側から鍵が掛けられており、その日も間違いなく施錠されていたという。そして開錠するための鍵は事務室にあり、園長が管理している。誰も持ち出せない。
また、五歳児の部屋と調理室との間にある倉庫も施錠されており、また仮に中に入れても窓すらなく、外へは出られない。
いよいよ手詰まりになってきた。
会話がなくなり、みんな考え込んだ表情で俯いている。


126: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:26:06 ID:HMJYUJcabU

僕は師匠をつついて、ちょっと、と窓際へ誘った。
「どうするんです」
小声で訊くと、「なにが」と返される。
ここまでなにやら推理めいたことをしているが、結局なにも分かっていない。
オバケ事案を解決するための霊能力を期待されてやってきたはずなのに、これではどうやって決着をつけるつもりなのか。
そんなことをささやくと、ふん、と笑われた。
「いないものはしょうがないだろう」
「いないって、なにがですか」
「あれがだよ」
うすうす僕も感じていたが、あらためてそう言われると、やっぱり、という気になる。
ようするにこの保育園にオバケの気配を感じないのだ。
この魔方陣騒動の前からたびたびあったという怪談めいた話など、やはりただの噂だったのだろうか。
師匠は少し唸って、こう言った。
「ちょっと違うかな。なんかこう、残滓、残りカスみたいなものは感じるんだけど、もういなくなった、ってとこだな。まあ多少の悪さをする霊がいたとしても、もう消えちまったってんじゃ、どうせたいしたことないやつだっただろうし、今さらどうしようもないわな」
「魔方陣はそいつが?」
「さあなあ。もう分からん。人間がやった可能性の方が高いと思うけど」
師匠は溜め息をついた。
この場をどうやって収めるのか、なんだか心配になってきた。


127: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:27:37 ID:pIgPmzpxL2

これだけ依頼人たちに時間を取らせて、結局なにも分かりませんでした、というのでは気まずい。気まずすぎる。
今も背中に無言のプレッシャーを感じる。
「とりあえず、もう悪霊の類はいなくなっていますから、これからは大丈夫です、とでも言いますか」
口先だけではまずそうなので、なにか小芝居の一つでもいるかも知れない。
しかし師匠は頭を掻きながら、「でもなにか引っかかるんだよな」とぶつぶつ言う。
そうしてしばらく考え込んでいたかと思うと、「んん?」と唸って外に飛び出した。
園庭の中ほどで立ち止まり、周囲を見回す。そして正面のフェンス際の木と、園舎とを交互に指さしてしきりに頷いている。
「ああ、そうか」
少し遅れて駆け寄った僕の耳にそんな言葉が入ってきた。
「おい、タオルを借りて来い」
師匠から僕に指示が飛ぶ。
「緑色のですか、青色のですか」
そう確認すると、「何色でもいい」という答え。その瞬間、僕は師匠がなにか掴んだということを感じた。
僕はすぐさま五歳児室に戻り、先生たちにタオルを貸して欲しいと頼む。
「これでいいですか」
悦子先生から渡された白いタオルを手に園庭へとって返すと、そのまま「あの木の枝に引っかけてこい」と言われる。
ちょうど五歳児室の正面の木だ。
僕は木の下に立つと、登れそうにないことを見て取り、タオルを丸めて幹に近い枝をめがけて投げつけた。
最初はそのまま落ちて来たが、何度か繰り返すと上手い具合に引っかかってくれた。
「これでいいですか」
と振り返ると、師匠が親指で園舎をさしながら頷いている。


128: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:29:19 ID:HMJYUJcabU

二人して五歳児室に戻り、四人の保育士たちが見守る中でフローリングの床に腰を下ろした。
「さて」
視線を集めながら師匠が落ち着き払った態度でそう切り出す。
「雷が鳴った時に見たという、緑のタオルのことですが、あんな感じで木の枝に引っかかってたんですね」
保育士たちは、いったい何を言い出すのだろう、という怪訝な表情で見つめている。
「悦子先生、そうですね」
念押しをされてようやく悦子先生は頷いた。
「由衣先生、そうですね」
由衣先生も恐々、という様子で神妙に頷く。
「麻美先生、そうですね」
話を振られた麻美先生は、驚いたように「私は見ていません」と言った。
「洋子先生、そうですね」
洋子先生も、「私も見ていませんから」と返事をする。
全員の答えを聞き終えてから、師匠はもう一度その中の一人に向かってこう言った。
「由衣先生、あなたが犯人ですね」
ええ?
どよめきが走った。
僕にしてもそうだ。
「ち、違います」
怯えた表情で由衣先生が否定する。
「では少し思い出しましょうか。事件当日のことではありません。つい先ほどの証言です。悦子先生が『外が光って雷が鳴って、ガラス戸のところまで歩いて、カーテンの隙間から外を覗いたら、緑色のタオルみたいなものがフェンス際の木の枝に引っかかっているのが見えた』と言ったあと、由衣先生はこう言いました。『雷が鳴って驚いて振り向いたら、あの辺の木の枝にタオルが引っかかってるのが見えた』と」
師匠の言葉に誰も怪訝な表情を崩さない。
一体なにを言いたいのか、さっぱり分からないのだ。


129: 保育園・中編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:31:33 ID:HMJYUJcabU

「この二人の証言には決定的な違いがあります。雷が鳴った後の行動です。悦子先生は、ガラス戸のところまで歩いて、カーテンの隙間から外を覗いたら、タオルが見えました。しかし由衣先生は、驚いて、振り向いたらタオルが見えています。分かりますか。カーテンの隙間から覗いていないんですよ。さらに言えばガラス戸に近づいてもいない」
師匠は自信満々という表情でそんなことを言う。
「いいですか。雨が降っている間、園舎のすべてのガラス戸や窓にはカーテンが掛けられていました。このことはこれまでの証言から確かなはずです。カーテンを開けず、また隙間から覗き込みもしないで、園庭のあの木の枝にかかったタオルを見ることはできないはずなんです。もちろん……」
はじめから外にいた人を除いて。
師匠の目が細められる。芝居掛かっているが、ゾクリとするような色気があった。
しかし……
「そんなの、ただの言葉の綾じゃないですか」
由衣先生ではなく、悦子先生が気色ばんでそう抗弁する。疑われた本人の方は真っ青になって小刻みに震えている。
「いいえ。彼女はカーテンから外を覗いていない。雷に驚いて振り向いたとき、そのまま木の枝のタオルが見えたんです。証言の通りのことが起きたのです。それを今から証明して見せます」
そう言って師匠が立ち上がった。


130: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:33:23 ID:pIgPmzpxL2

『保育園』 後編

キッ、となって悦子先生も立ち上がる。麻美先生も肩を怒らせながら立ち上がった。
それに遅れて洋子先生と由衣先生もおずおずと腰を浮かせる。
外へ出るのだと早合点した悦子先生がガラス戸の方へ向かいかけるのを、師匠が止める。
「こっちです」
そうして廊下へ出た師匠は玄関の方へ進んでいった。
三・四歳児の部屋の前を通り、事務室の前を通り抜け、玄関の奥にある階段の前で立ち止まった。
「上ります」
そう言ってから階段に足を踏み出す。僕らもそれに続いて階段を上っていく。
二階の廊下にたどり着くと、右手側に戸が四つ並んでいる。
遊戯室、0歳児室、一歳児室、二歳児室。
師匠は三番目の一歳児室の戸を開けた。由衣先生が担任をしている部屋だ。
一階と同じようにフローリングの床が広がっている。五歳児室よりも少し狭いようだ。位置で言うと、一階の三・四歳児室の真上ということになる。
休園日のためか、窓のカーテンが閉められていて少し薄暗い。
全員が部屋に入ったことを確認してから師匠がその窓際に近づいていく。
「仮に、です。雷が鳴った瞬間、たまたま窓際にいたとしましょう。それも窓に背を向けて。そして外が光る。雷が鳴る。驚いた由衣先生は振り向く」
師匠はそう喋りながら振り向いて、窓のカーテンに手を突く。
「おっと、まだ外は見えませんね」
嫌らしくそう言ってから、カーテンの裾をつかんで開け放つ。ジャッ、というレールを走る音がして、外の光が飛び込んでくる。
「さあ、カーテンは開きましたよ! タオルはどこに見えます?」
師匠は声を張った。
僕らは思わず窓際に近寄って、同じように外を見下ろす。
なんの変哲もない園庭の光景が眼下に広がっている。


131: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:35:07 ID:pIgPmzpxL2

タオルは五歳児室の正面の木に引っかけたはずなので、隣の三・四歳児室の真上に位置するこの部屋からは少し左斜め前方に見えるはずだ。
みんなそちらの方向を見つめる。
しかし白いタオルは見えなかった。
先生の誰かが言った。
「ここからじゃ、角度が」
そしてハッと息を飲む。
師匠が写真を掲げて見せる。
魔方陣が写った園庭の写真だ。
「二階の部屋、正確には隣の二歳児室から撮影されたこの写真は、フェンス際の木まで写ってはいますが、葉が茂っているせいで、幹に近い枝にかかったタオルは見えません。悦子先生の証言では、魔方陣が見つかった時にもタオルはあったということでしたね。ちょうどこの写真が撮られた時です。なのに、写真には写っていない。葉が邪魔して見えないんですよ。二階の窓から構えたカメラからは」
師匠は両手の親指と人差し指でファインダーを作り、ニヤリと笑った。
「つまり、二階の窓からの視線ではね」
こんな風に。
そう言って、僕がさっき白いタオルをかけたはずの木に向かって「カシャッ」と口でシャッターを切った。
みんな驚いた顔で師匠を見ている。そしてその視線がやがて由衣先生に集まる。
「私じゃない!」
由衣先生はそう言ってその場にへたり込んだ。顔を覆ってわなわなと震えている。
「外には出ました。でも私じゃない」
そう呻いて、啜り泣きを始めた。
他の先生が「落ち着いて、ね?」と言いながら背中をさすっている。
師匠はその様子を冷淡に見下ろしている。
しばらくそうして啜り泣いていたが、ようやくぽつぽつと語り始めた。自分の口から、あの日あったことを。


132: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:38:38 ID:HMJYUJcabU




きっかけはその事件の数日前だった。
園児たちがみんな帰宅し、他の先生たちも順次帰っていった後、由衣先生は一人で園に残って、書きかけの書類を仕上げていた。
七時を過ぎ、その残業にもようやく目処がついたころ、ふいに来客があった。
スーツを着て、立派な身なりをしていたので、保護者が忘れ物でも取りに来たのかも知れないと思い、門のところまで出て行くと、その男性は頭を下げながら『沼田ちかの父です』と言うのだ。
沼田ちか。
その時初めて不審な思いが湧いた。
とっさにそんな子はうちにはいませんが、と口にしそうになった瞬間、その名前とそれにまつわる事件のことを思い出した。
数年前、この保育園に通っていた沼田ちかちゃんという女の子がいたことを。
片親だったその子は他の子と家庭環境が違うことを敏感に感じ取り、園でもあまりなじめなかったそうだ。
そして五歳児、つまり年長組になったころから、ようやく友だちの輪にも入れるようになり、毎日だんだんと笑顔が増えていった。
そんなおり、ある週末にお祖母ちゃんにつれられて、買い物に行こうとしていた時、歩道に乗り上げてきたダンプカーに二人とも跳ねられてしまった。居眠り運転だった。お祖母ちゃんの方は助かったが、ちかちゃんは内臓を深く傷つけていて、治療の甲斐なく亡くなってしまった。
当時担任だったという先輩の保育士からそのことを聞いて、とても胸が痛んだことを覚えている。
由衣先生は緊張して、『ちかちゃんのお父さんですか』と言った。
男性は静かに目礼して、懐からぬいぐるみを取り出した。
小さなクマのぬぐるみだった。
『ちかの好きだったぬいぐるみです』
これを、園庭に埋めてもらえないだろうか。
男性は深く頭を下げてそう頼むのだった。


133: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:40:02 ID:HMJYUJcabU

『私は明日この街を去ります。せめてちかが、この街で生きていた証に』
由衣先生は最初断った。
しかし、繰り返される男性の懇願についに折れてしまった。
『ありがとう。ありがとう。きっとちかもお友だちと遊べて幸せでしょう』
涙を拭う男性の姿に、思わずもらい泣きをしてしまいそうになったが、男性が去ったあと、託されたぬいぐるみを手にして由衣先生は少し薄気味が悪くなった。
最後の言葉。まるであのお父さんは、このぬいぐるみがちかちゃん自身であるかのように話していた気がする。
どうしよう。
捨ててしまおうか。
そう思わないでもなかった。
しかし結局、由衣先生は、男性の想いのとおりそのクマのぬいぐるみを園庭に埋めてあげることにした。
捨ててしまうことで、お父さんの、あるいはちかちゃんの恨みが自分自身に降りかかって来るような気がしたのだ。
花壇の方へ埋めようかとも思ったが、誰かに掘り返されるかも知れない。それにお父さんは『園庭に』と言いながら、園庭の真ん中を指差して頼んでいたのだ。
フェンスの根元のあたりなどではなく、園児たちが遊ぶその園庭の真っ只中に埋めて欲しい。そういう希望なのだった。
由衣先生はその夜、苦労してスコップで穴を掘り、園庭の真ん中にぬいぐるみを埋めた。
そして上から土を被せ、何度も踏んでその土を固めた。最後に物置から出してきたトンボで地ならしをして、ようやくその作業が終わった。
どっと疲れが出て、残っていた書類も仕上げないまま、家路についた。


134: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:42:33 ID:HMJYUJcabU

そんなことがあった数日後だ。
十一時ごろに雨が降り始め、わあわあ騒ぎながら子どもたちが園舎に駆け込んでいくのを二階の一歳児の窓から見ていた。
雨脚は強くなり、やがて土砂降りになった。
受け持ちの子どもたちに食事をさせ、そして寝かしつけている間も気はそぞろだった。
『雨でぬいぐるみが土から出てきたらどうしよう』
しっかり踏み固めたつもりでも、やっぱり周りの地面より柔らかくて土が流されてしまうのではないだろうか。
そう思うといてもたってもいられなかった。
もし園庭に埋めたぬいぐるみが園長先生にでも見つかったら、大目玉だ。ちかちゃんのお父さんにどうしてもと頼まれた、と言ってもそんな言い訳が通じないことはこれまでの付き合いでよく分かっている。
子どもがみんな寝てしまった後もしばらく迷っていたが、とうとう由衣先生は決意して部屋を出る。
二階から階段で降りると、すぐに玄関の方へ向かうと事務室からは見つからない。
傘立てから自分の青い傘を手に取り、それを広げながらサンダルをつっかけて外へ出る。
外はまだ黒い雲に覆われて薄暗いが、雨脚は少し弱まって来ているようだ。
ぬかるんだ土に足を取られながらもようやく園庭の中ほどまでやってくる。ぬいぐるみを埋めたあたりだ。
しばらく傘をさしたまま、その場で無数の雨が叩く地面を見回していたが、どうやらぬいぐるみは土から出てきてはいないようだと判断する。
大丈夫かな。
少しホッとして玄関の方へ戻っていく。雨に多少濡れても早足でだ。もしこの大雨の中、外に出ていることを他の先生に見つかると、言い訳が面倒だ。
もし見つかったら、鍵かなにかを落としてしまって探しにいったことにしよう。
そう考えながら歩いていると、ふいに視界に白い光が走り、間髪いれずに雷が鳴った。
それほど音は大きくなかったが、かなり近かった気がして思わず振り向いた。
しかし特に異変はなかった。
園舎に早く戻ろうと、玄関に足を向けかけたとき、一瞬、視界の端にあった木の枝に緑色のタオルがかかっているのが見えた……


135: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:44:47 ID:HMJYUJcabU




「私じゃないんです」
もう一度そう言って由衣先生は啜り上げた。
部屋に戻って、しばらく経ってから悦子先生の悲鳴に驚いて外を見てみると、雨が上がった園庭に魔方陣が描かれていたのだという。
さっき外に見に行った時には、そんなもの影も形もなかったのに!
そう思うと怖くなってしまった。
自分が外へ出ていたことを話してしまうと、ぬいぐるみのことがバレてしまうかも知れない。まして魔方陣を描いた犯人に疑われてしまうかも知れないのだ。
由衣先生は、外へ出たことを黙っていようと心に決めた。
悦子先生たちが怪奇現象専門の探偵にこの事件のことを依頼するといって盛り上がっていても、そっとしておいて欲しい、という気持ちだったが仲間はずれにされることが怖くて、流されるままにお金も出し、こうして休みの日に園へ出て来ているのだった。
「でも私じゃないんです」
声を震わせる由衣先生を見下ろしながら、師匠は困ったような顔をした。
あの顔は、謎が解けてないな。
僕はそう推測する。
そもそもこの事件には、魔方陣を描いた犯人が保育士の誰かであれ、園児であれ、また門扉やフェンスをよじ登った侵入者であれ、大雨の後、魔方陣がくっきり残っているのに、足跡が残っていないという重大な問題がある。
結局そのことはたな晒しにしたままだが、師匠的には雨の中外へ出ていた人物が見つかれば、そのあたりも勝手に告白してくれるだろうと踏んでいたに違いない。
しかし由衣先生は、自分ではないと言い張っている。
辻褄は一応は合っているし、ちかちゃんのお父さんのお願いから始まるあの話がとっさの作り話とも思えない。おおむね本当のことを言いながら、魔方陣を描いた部分だけを上手く端折って話したにしても、その動機や、足跡を残さずに魔法陣だけ残してその場を去ったウルトラCに関するエピソードがこっそり入り込む余地があるようにはとても思えなかった。
「うーん」
師匠は頭を掻いている。
そう言えば、ここ数日風呂に入っていないと言っていたことを思い出した。
困った末なのか、単に頭が痒いのか分からないが、しかめ面をして唸っている。
泣いている由衣先生の背中をさすっている他の先生たちも、困惑したような表情をしている。麻美先生など、露骨に不審げな顔だ。


136: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:46:46 ID:HMJYUJcabU

「今の話が本当だとするとですよ」
師匠はようやく口を開く。
「雷が鳴って、五歳児の部屋から悦子先生がカーテン越しに外を見た時、まだ由衣先生は外にいたことになる。どうして見つからなかったのかという問題が…… ああ、いや、そうか。玄関の近くまで戻っていたら、角度的に五歳児室からは見えないか。ううん。まあとにかく、雨が弱まり始めたころ、まだ魔方陣は現れていなかったわけですよね。雷が鳴って、由衣先生が園舎に戻り、しばらくして雨が止む。その雨が止んだ二時ごろに悦子先生が外に出る。あまり時間がありませんね。一体誰がどのタイミングで、どうやって?」
後半はほとんど独り言のようになりながら、師匠がなにげなく窓の外を見た時、その動きがピタリと止まった。
「なにっ」
緊迫したその声に、思わず視線を追って窓の外を見下ろす。
園庭の真ん中。
さっきまでなんの異変もなかったその園庭の真ん中に、なにかがあった。
師匠が窓から飛び出しそうな勢いで身を乗り出す。
「うそだろ」
そんな言葉が僕の口をついた。
魔方陣だ。
魔方陣が、園庭の真ん中に忽然と現れていた。
馬鹿な。
タオルはどこに見えます?
師匠がそう言った時、みんな外を見ている。ついさっきのことだ。その時は間違いなくそんなものはなかった。
だが今、眼下に間違いなく魔方陣は存在している。
写真に写っているものにそっくりだ。
場所も、この部屋からは左斜め。つまり、五歳児室の正面のあたりであり、九日前に現れたというその場所とまったく同じだ。
背筋に怖気が走った。
なんだこれは。
保育士たちも言葉を失って悲鳴を飲み込んでいる。
由衣先生など、ほとんど気絶しかかっている。
「下に行け。誰も見逃すな」
師匠から短い指示が飛ぶ。
あれを地面に描いたやつのことか。
しかし今この園にはこの部屋にいる六人の他、誰もいないはずだ。誰かずっと隠れていたというのか。それとも侵入者? このタイミングで?
おかしい。明らかにおかしい。
僕たちの誰にも見られず、あの一瞬であんなものを園庭の真ん中に描くなんて、尋常じゃない。
ゾクゾクと寒気が全身を駆け回る。
しかしそんな僕を尻目に、身を乗り出していた師匠が窓枠に足を掛け、「早く行け」と叫んでそのまま窓の外へ消えた。
落ちた?
そう思って窓へ駆け寄ったが、その真下で砂埃の中、師匠が立ち上がるところが見えた。
受身を取ったのか。とんでもないことをする人だ。
だがそれを見てまだぐずぐずしているわけにはいかなかった。すぐさま部屋から出て廊下を抜けて階段を駆け下りる。


137: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:50:15 ID:pIgPmzpxL2

一階に降り立ったが、廊下側にも玄関側にも人の姿はなかった。視界の隅、それぞれの部屋に誰が消えていく瞬間にも出会わなかった。
すぐに下駄箱の前を走り抜け、スリッパのまま外に出る。
左前方に師匠の姿が見える。
そちらに駆け寄ろうとするが、とっさに右手側の門扉を確認する。閉まったままだ。誰かが逃げていった様子もない。
あらためて師匠のいる方へ走り出すと、すぐさま怒鳴り声が飛んでくる。
「待て、うかつに近寄るな」
師匠が右手の手のひらだけをこちらに向けて、顔も見せずにそう言うのだ。
僕は思わずダッシュをランニングぐらいに落とす。
「誰も外へ出すな」
次の指示を聞いて、振り向くと玄関から保育士たちがおっかなびっくり顔を覗かせている。
「出ないでください」
僕がそう叫ぶと、びくりとしてみんな玄関に引っ込んだ。そしてまた顔だけを伸ばしてこちらを見つめる。
その様子を見てから、僕はゆっくりと師匠の方へ目を向ける。
足跡が乱されるのを恐れているのか、と一瞬思った。が、雨の日とは違い、もとから薄っすらとした無数の足跡で園庭は埋め尽くされている。これでは足跡は追えないだろう。
そう思ってまた師匠の方へ近づいていくと、その背中が異様な緊張を帯びていることに気づいた。気配で分かる。
あの緊張は、師匠が会いたくてたまらないものに出会えた時の、そして畏れてやまないものに出会えた時の……
「静かに、こっちに来い」
そろそろとした声でそう言う。
僕はそれに従う。
師匠の足元に魔方陣がある。
だんだんと近づいていく。
大きな円の中に、三角形が二つ交互に重なって収まっている。ダビデの星だ。
だんだんと近づいてくる。
そしてその星と円周の間になにか奇妙な文字のようなものがあり、ぐるりと円を一周している。
魔方陣。
魔方陣だ。
写真で見たものと同じ。
だが、僕はその地面に描かれた姿に、一瞬、言葉に言い表せない奇怪なものを感じた。
それがなんなのか。
何故なのか。
知りたい。
いや知りたくない。
足は止まらない。
師匠の背中が迫る。
キリキリと空気の中に刃物が混ざっているような感じ。
「見ろ」
師匠がそう言う。
僕はその横に並び、足元に描かれたその模様を見下ろす。
心臓を、誰かに掴まれたような気がした。


138: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:52:32 ID:pIgPmzpxL2

足跡が、残っていなかったわけがわかった。
師匠が異様に緊張しているわけがわかった。
あの一瞬で、誰にも見られずにこれが描かれたわけがわかった。
傘じゃない。
傘の先なんかで描かれたんじゃなかった。
写真で見ただけじゃわからなかったことが、ここまで近づくとよくわかった。
その円は、重なった二つの三角形は、そして何処のものとも知れない文字は。
地面を抉ってはいなかった。
その逆。
土が盛り上がって作られている。
まるで誰かが、土の底、地面の内側から大きな指でなぞったかのように。
「うっ」
吐き気を、手で押さえる。
ついさっきまで、なにも感じなかったはずの園庭に、今は異常な気配が満ちている。とても『残りカス』などと評されたものとは思えない。全く異なる、底知れない気配。
地中から湧き上がって来る悪意のようなもの。
僕は地の底から巨大な誰かの顔が、こちらを見ているような錯覚に陥る。
そしてその視線は、気配は、すべて、緊張し顔を強張らせる師匠に向かって流れている。
その凍てついたような空気の中、師匠は滑るように動き出し、腰に巻いていたポシェットから小さなスコップを取り出した。そして魔方陣の中に足を踏み入れ、その刃先を円の真ん中に突き立てた。動けないでいる僕の目の前で、師匠は土を掘る。ガシガシ、という音だけが響く。
やがてその手が止まり、左手が地面の奥へ差し入れられる。
左手がゆっくりと何かを掴んで地表に出てくる。
人の手。
黒く、腐った人間の手。
ゾクリとした。
誰の手。
誰の。
だが師匠がそれを胸の高さまで持ち上げた瞬間、それが人形の手であることに気づく。
マネキンの手か。
土で汚れた黒い肌に、かすかな光沢が見える。肘までしかない、マネキンの手。
クマのぬいぐるみなどではなかった。どういうことなのか。
「トンボ」
師匠がボソリと言う。そして僕を促すように反対の手で招くような仕草をする。
意図を知って僕は振り向き、園舎の方へ走り出す。その場を離れたかった、という気持ちがないと言えば嘘になる。
地面の内側から描かれたような魔方陣。立ち込める異様な気配。魔方陣の中に埋められたマネキンの手。
ただごとではなかった。その場に立ち会うには、僕はまだ早すぎる。そんな直感に襲われたのだ。


139: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:54:27 ID:HMJYUJcabU

走ってくる僕に、怯えたような表情をした保育士たちだったが、「トンボを借ります」と言うと、玄関から出てきて、裏手の物置へ案内してくれた。
取っ手の錆びついたトンボを引きずりながら園庭に出てくると、煙が立っているのが見える。師匠が魔方陣の上で、マネキンの手を燃やしているのだ。
黒い煙がゆらゆらと立ち上っている。
ポシェットに入っていたらしい小型のガスボンベにノズルを取り付けて、ライターで火をつけ、バーナーのように使っていた。
煙を吸わないように服のそでを口元に当てながら、師匠はそうしてマネキンの手を燃やしていった。
やがて燃えカスを蹴飛ばし、僕に向かって「トンボ」と言う。手渡すと師匠はためらいもなく魔方陣を消した。ワイパーで汚れを取るように。
地面がすっかりならされ、魔方陣など跡形もなくなったころ、師匠は僕に顔を向けた。
「解決」
そうして笑った。
だがその顔はどこか強張り、額から落ちる汗で一面が濡れている。
地中深くから湧き上ってくるようなプレッシャーもいつの間にか霧散していた。


140: 保育園・後編 ◆LaKVRye0d.:2017/2/8(水) 01:57:00 ID:pIgPmzpxL2
それからまた僕らは園舎に戻り、五歳児室で車座に座った。
保育士たちは、忽然と現れた魔方陣とそこから出土したマネキンの手に、今でも信じられないという様子で生唾を呑んでいる。
やがてクマのぬいぐるみを埋めた、と証言した由衣先生が、あんなものは知らないと喚いた。だが、現実に出てきたのはマネキンの手だ。
落ち着かせようと優しい言葉をかける悦子先生の横で、麻美先生が口を開く。
「私も聞いた話で、自信がなかったんだけど。やっぱり間違いない。沼田ちかちゃんは、確か母子家庭だったはず」
父子家庭じゃなくて。
それも蒸発などではなく、死別だったはずだ、と言うのだ。
ではあの夜、由衣先生の前に現れてぬいぐるみを託したの男は誰なのだ。そもそもそれは本当にぬいぐるみだったのか。
疑いの目が由衣先生に集まる。
「知らない。私知らない」
錯乱してそう繰り返すだけの由衣先生に、師匠は取り成すように告げる。
「記憶の混乱ですね。この園に巣食っていた霊の仕業でしょう。ですがそれももう終わったことです。元凶はさっき私が燃やしてしまいましたから。もう何も霊的なものは感じられません。これでおかしなことは起こらないはずです」
きっぱりとそう言った師匠に、先生たちはどこか安堵したような顔になった。
「もしなにかあったら、アフターサービスで駆けつけますよ。いつでも呼んでください」
その笑顔に、みんなころりと騙されたのだ。
解決などしていなかった。
これまでにこの保育園で起こっていた怪奇現象の原因は恐らく、師匠が感じていた『残りカス』の方だろう。
だがそれはもう消え去っている。
いつ?
たぶん、魔方陣が最初に現れた日。いや、ちかちゃんの父親を名乗る男が得体の知れないなにかを携えてやって来た日かも知れない。
それは、そんなごく普通の悪霊など、近づいただけで吹き飛ばされて消えてしまうような、底知れない力を持ったものだったのだろうか。
だが師匠はなにも言わなかった。
ただ僕たちはお礼を言われて、その保育園を出た。去り際、悦子先生がまだ泣いている由衣先生を叱咤して、「ほら、しっかりして。もう大丈夫だから」と肩を抱いてあげていた。
まあ、これはこれで良かったのかな、と僕は思った。
その帰り道、事務所へ向かう途中で、師匠は文具屋に立ち寄り、市内の地図を買った。
かなり詳細な地図だ。
そしてその場でそれを広げ、さっきの保育園が載っている場所に、マーカーで印をつけた。日付と、魔方陣の絵。そしてマネキンの手の図案を添えて。
「それをどうするんですか」
僕が訊くと、師匠ははぐらかすように言った。
「どうもしないよ。けど、なんとなく、な」
その時の師匠の目の奥の光を、僕は今も覚えている。なんだか暗く、深い光だ。
それを見た時の僕は、なんとも言えない不安な気持ちになった。
死の兆し。
それをはっきり意識したのは、その時が最初だったのかも知れない。


保育園【了】


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