「出来、たー……!」
オフィス用の椅子を限界まで倒してのけ反ると、背骨と腰の辺りからばきぼきと嫌な音が鳴った。
うん。リアルだ。
ひとりで納得しながら腕を伸ばしていると、窓口に立っていた結さんが振り返る。
「お疲れ様、今日のノルマは終わりよ」
「死んでるのにドライアイになりそうですよ」
「私だって死んでから書類仕事する羽目になるとは思わなかったわよ」
お腹は空かない、でも眠れる。
肉体はないはずなのに、仕事をすれば疲れるし、物に触れることもできる。
死後の世界というものは、全くおかしな場所だった。
2: 1:2011/12/11(日) 16:15:09 ID:YW2VpLC90c
「お、頑張ったじゃない。偉い偉い」
ひょこりと顔を出した結さんが、パソコン画面を覗き込む。
画面に表示された記録は1ヶ月分ほど進み、机に山積みになっていた書類も何とか片付いていた。
「この分だともーちょい行けそうよね。ノルマ増やす?」
「勘弁してくださいよ」
俺は力なく苦笑する。これでも疲れていた。
こちらの世界に来た、つまり亡くなった人達の死因や命日の記録をパソコンに打ち込むのが俺の仕事だ。
恐ろしいことにこの事務所の記録は、このデジタル化の時代に全て紙媒体で残っていてかなり煩雑である。
3: 1:2011/12/11(日) 16:15:40 ID:YW2VpLC90c
流石に一定期間保存したものは廃棄していたらしいけれど、それでも膨大な量が残っていて。
「それにしても、よくこの量を書類で管理してましたね。逆に感心します」
目頭を押さえながらぼやくと、結さんがちっちっと指を振る。
「だって管理できてなかったもの」
「おい責任者」
「本棚から溢れちゃあねえ、仕方ないでしょう」
他人事のように笑う結さんは、実際今は他人事なのだろう。
記録の管理を俺に任せた今、彼女の仕事相手は書類ではなかった。
4: 1:2011/12/11(日) 16:16:11 ID:YW2VpLC90c
「すみませーん」
結さんの肩越し、壁に空いた窓口から人の呼び掛けが聞こえた。
「はいはーい、ただいまー」
結さんが大声で返事をしながら、慌てたように立ち上がる。
俺はすっかり凝った肩を揉みほぐしながら、いってらっしゃいと呟いた。
「いってきます」
振り向きざまに結さんが、にっと笑って俺の額を小突く。
いい年をして、子供みたいな悪戯が好きなものだ。
俺は額に触れながら、彼女の後ろ姿を見送った。
5: 1:2011/12/11(日) 16:16:42 ID:YW2VpLC90c
「ああ、はいはい現世行きね、一回しか行けないけど良いの?……そう、じゃあここに必要事項記入して」
結さんの声を聞きながら、そうかここは現世じゃなかったと改めて思う。
実感が湧かなかった。
この事務所には雑多なファイルが散乱していて、筆記用具が散らかっていて、俺の目の前にはパソコンまである。
ありふれた光景。その辺のビルの一室に、普通に存在するような。
でも俺は、窓口の向こうの雑踏に、生身の人間がいないことを知っている。
俺も、もちろん結さんも、生者ではないことを知っていたのだ。
6: 1:2011/12/11(日) 16:17:11 ID:YW2VpLC90c
「……はいありがとう。何日発行しとく?一週間で足りる?……そう、じゃあ二週間にしておくわ」
慣れた動作で書類にペンで書き込むと、結さんは素早く判子を押した。
「じゃあこれ切符ね。失くしちゃ駄目よ、再発行できないから」
窓口の隙間から、結さんが切符を差し出すのが仕草で分かった。
天国から地上まで降りるのが、あんな紙切れ一枚で許されてしまうのが面白い。
ここが果たして天国と呼べるものか、俺には甚だ疑問であるけれど。
7: 1:2011/12/11(日) 16:17:43 ID:YW2VpLC90c
「世田谷区なら3番線ホームの電車から行けるわ。ええ、亡くなった場所に着くから、期限内に戻って来てね。悪霊になっちゃうわよ」
結さんが冗談めかして笑う。
窓口の向こう、少し緊張していた客も笑ったようだった。
「……お気をつけて。良い旅を」
結さんが静かに頭を下げると、客は小さく会釈して去って行った。
きっとこのまま電車を待って、最後の別れを惜しみに行くのだろう。
俺は唇を噛んで、遠ざかる後ろ姿を見詰めていた。
8: 1:2011/12/11(日) 16:18:13 ID:YW2VpLC90c
東京ターミナル駅総合案内事務所。
そこが今、俺のいる場所だ。
所謂あの世が駅の形をしているなんて思ってもみなかったけれど、いつの間にか馴染んでいる自分がいた。
窓口の向こう側で、行き交う人の群れ。
死んでから成仏するまでの間の、まだ行き先を躊躇っている人達が、ここには集まっている。
幽霊として現世に戻るにしろ、覚悟を決めて次の場所に向かうにしろ、彼らの行く先を導くのは、総合案内事務所の責任者。
それがこの、結さんだった。
9: 1:2011/12/11(日) 16:21:29 ID:7cMpp1kMaE
「はあ、疲れたわ」
結さんがこきこきと首を回しながら帰ってくる。
そのままどっかと椅子に体を預けると、仰向けのまま俺に向かって要求した。
「憩、お茶淹れて。甘ーいミルクティ」
「嫌ですよ」
「いーこーいー」
駄々っ子のようにじたばたする結さんは、果たして自分の年齢を分かっているのだろうか。
二十代後半程に見えるが、それは享年らしい。
この仕事を始めて二十年近くなるというから、つまり実年齢は。
10: 1:2011/12/11(日) 16:22:01 ID:7cMpp1kMaE
「何をそんなに見てるのかしら?」
「いっ」
脳天に強烈な一撃を食らって見上げれば、結さんが丸めたファイルを片手に仁王立ちしていた。
「そんなに見詰められて……お姉さん照れちゃう」
「誰がお姉さんとごめんなさいやめてくださいすいません」
「分かればよろしい」
うむ。と腕組みをした結さんが、ファイルを放り出して給湯室に向かう。
どうやらお茶は自分で淹れるらしかった。
11: 1:2011/12/11(日) 16:22:26 ID:7cMpp1kMaE
「それにしてもさあ」
湯気の立ち上るマグカップで、両手を温めながら結さんが言う。
そもそも何で死んでるのに飲めるのか、なんて疑問はとうの昔に忘れてしまった。
おこぼれに与かって熱い紅茶を啜る俺を、不躾な視線が上から下まで這い回る。
「……何ですか」
何だこれさっきの仕返しか。と思いながら尋ねると、結さんはミルクティを吹いて冷ましながら問い掛けた。
「憩ってなんで死んじゃったんだっけ」
12: 1:2011/12/11(日) 16:22:54 ID:7cMpp1kMaE
随分とまあ直球な、と俺は思わず溜め息をついた。
「そんな質問、生まれてこの方されたことがありませんよ」
「だって死ななきゃできないもの」
さらりと答える結さんに、それも最もだと納得してしまう。
でも、だからと言って今日の天気を話すように聞かれても、と思う。
「確か交通事故でしょ、書類にあったの」
「はい、自転車で飛び出したところを、トラックにポーンと」
この人に気遣いを求めても無駄だと諦めて、俺はそのことを話し始めた。
13: 1:2011/12/11(日) 16:23:22 ID:7cMpp1kMaE
今でも鮮明に思い出す。
耳元を切る冷たい風、真っ暗な闇を切り裂いたライト、つんざくようなクラクションと、世界が反転して、最後に見たのは逆光の人影だった。
「完全な俺の不注意でしたね、トラック運転手の人に悪いことしました」
「駄目じゃない、飛び出しちゃあ」
「急いでたんですよ、日付変わりそうだったから」
彼女の誕生日だったんです、と紅茶を流し込みながら付け加える。
そういえば祝えずじまいだったと、今になって気が付いた。
14: 1:2011/12/11(日) 16:23:52 ID:7cMpp1kMaE
俺の感傷をよそに、結さんが嬉々として俺ににじり寄る。
「ねえ憩、そう言うの何て言うか教えてあげよっか」
「はいはい、何ですか」
「りあじゅう」
結さんがどや顔で言い放つ。
俺は無言で椅子ごと後ずさった。
「え、ねえちょっと何その反応。こないだ死んだばっかの女子高生に聞いたんだけど」
「数十年単位で遅れてる人が無理しないで下さい」
「何それオバサンだって言いたいの?」
こめかみに青筋を立てる結さんに口先だけで否定して、マグカップを庇いながら逃げる。
窓口から甲高い声が聞こえたのは、そのときだった。
15: 1:2011/12/11(日) 16:24:29 ID:7cMpp1kMaE
「すーいませーん!あのー!」
音程の高い、明らかに子供の声でなされた呼び掛けに、結さんはわざとらしく舌打ちをしてみせると俺をひと睨みして窓口に向かった。
危ない、危ない。
ちょうど良すぎるタイミングに、にやつきながら結さんを見送ると、俺は残った紅茶を一気に飲み干した。
「はい、お待たせ。何かしら、君」
子供相手にくるりと変わった営業用の声に吹き出しそうになりながら、耳を澄ませる。
「あの、おれ、もう一回この世に戻りたいんですけど!」
「駄目」
即答した結さんに、子供は不満げに大声を上げた。
16: 1:2011/12/12(月) 12:18:01 ID:7cMpp1kMaE
「なんで!」
「駄目なもんはだーめっ」
窓口の向こうで駄々を捏ねる子供になんとなく興味をひかれて、俺は席を立った。
「あのね、ひとり一回しか行けないの。君もうこないだ行ったでしょ、もう行けないわよ」
「でもっ」
結さんはすっかり応対する気をなくしたようだった。
窓口の椅子で足を組み、はぁーあと溜め息をつく。
「でもおれ、行かなきゃならないんだ。もう一回、どうしても行きたいんだ」
「みんな同じよ、でも我慢している」
子供が言葉に詰まる。
ようやく視界に入った彼は、下を向いて拳を握り締めていた。
17: 1:2011/12/12(月) 12:18:38 ID:7cMpp1kMaE
「……じゃあいいよ、おれ勝手に行く!」
子供がくるりと踵を返す。
「あっ、こら!待ちなさい!」
結さんが慌てて立ち上がるも、子供はあっという間に駅中央ホールの雑踏に消えた。
わあ大変。
半ば面白がってそれを眺めていると、結さんが唐突に俺を振り向く。
「憩、ちょっと追い掛けてきて」
「嫌ですよ面倒臭い」
「あの子成仏できなくなるわ。上司命令よ」
「結さんいつから俺の上司に」
まあ立場的には上司だけど。
鋭い睨みをきかせる結さんの無言の圧力に負けて、俺は渋々案内事務所の扉に手をかけた。
18: 1:2011/12/12(月) 12:19:13 ID:XaSSnJluPk
「みーつけた」
立ち止まったところを、後ろから。
元気があっても所詮は子供、捕獲するのは簡単だった。
「あってめえ、離せよ!」
「やだよ俺が怒られるもん」
「はーなーせ!」
「こんにゃろ、はたちの体力舐めんなよ」
じたばたともがく子供を抱え上げて来た道を戻る。
危ないところだった。
どうやったのか改札口をすり抜けて、彼は駅ホームへの階段にまで来ていた。
19: 1:2011/12/12(月) 12:19:47 ID:XaSSnJluPk
「結さん、捕まえましたよ」
はい、と子供の首根っこを掴んでつき出すと、結さんはご苦労と言って満足そうに口角を上げた。
「さーもう逃げらんないわよ、観念しなさい」
「やだ!放せ!」
相変わらずぎゃあぎゃあとうるさい子供の両腕を掴んだまま、結さんが俺に指示する。
「憩、応接室開けといて。ついでにココアでも淹れてあげて」
「こっ子供扱いすんな!」
「するわよ、ガキ。たっぷりお話聞かせてもらうわ」
悪の親玉のような台詞を楽しげに言う結さんと急に青ざめた子供に背を向けて、俺は給湯室に足を運んだ。
20: 1:2011/12/12(月) 22:11:54 ID:XaSSnJluPk
温め直したミルクティとココアを持って部屋に入ると、流石にもう大人しくなった子供がソファに鎮座していた。
「気が利くじゃない」
ふたりの前にマグカップを置くと、結さんが表情を緩める。
子供の方は、目の前に置かれたココアと結さんの顔を、戸惑い気味に見比べていた。
「よし、じゃあ名前から聞きましょうか」
俺が隣に腰を下ろすのを見計らって結さんが切り出す。
子供は少し警戒したようにこちらを窺いながら、漸く口を開いた。
21: 1:2011/12/12(月) 22:12:40 ID:XaSSnJluPk
「……神山、大地」
「大地くんね、分かった」
結さんが手元の書類を見ながらふんふんと頷く。
いつの間にか結さんは彼の記録を探し当てていたらしかった。
「心臓の病気で亡くなってるのね、あんなに走って大丈夫だった?」
「別に、もう死んでるし」
大地は怪訝そうに結さんを見上げた。
初っぱなから叱られるとでも思っていたのか、居心地が悪そうにもぞもぞとソファの上に座り直す。
22: 1:2011/12/12(月) 22:13:18 ID:XaSSnJluPk
「そりゃそうよねえ、私だって死んでから風邪引いたことないし」
「知りませんよ」
俺が挟んだ突っ込みは華麗に無視される。
結さんはペンを顎に当てながら、書類の文字を目で追った。
「んー、現世滞在は三日間。二ヶ月くらい前に行ってるわね、合ってる?」
大地が頷く。三日とはなかなか短い。
結さんも同じことを思ったのか、片眉を吊り上げながら大地に尋ねた。
「結構短いけれど、それで用は足りたのかしら?」
「分かってたから。おれも、お母さんも」
23: 名無しさん@読者の声:2011/12/12(月) 23:53:23 ID:dqvzbTqV8Y
結っていうネーミングが素晴らしい
(´・ω・`)っC
24: 1:2011/12/13(火) 11:54:50 ID:XXnWtGX0ys
>>23
支援さんくす!
微妙に悩んだ甲斐があるってもんです(^ω^ )
25: 1:2011/12/13(火) 22:31:36 ID:XaSSnJluPk
大地はそのときのことを思い出しているのか、少し辛そうに顔を歪めた。
「おれさ、病気重くて。もうすぐ死ぬってことも知ってたから、帰ってもやることなんてないと思ってたんだ」
なるほど難病系か、と俺はひとりで納得した。
事故かと思ったが、この年齢で亡くなったのはそういう理由らしい。
「死んだのは仕方ないし、みんな悲しんでくれてたけど、やっぱり仕方ないって感じだった」
結さんは指一本動かさずに大地の話に聞き入っている。
俺は余所見をしたのが申し訳なくなって、大地に視線を戻した。
26: 1:2011/12/13(火) 22:32:30 ID:XaSSnJluPk
「でも、おれ、忘れてたんだ、約束したこと。お母さんの誕生日、今年はちゃんと祝うよって。でも、……」
「その前に、ここに来てしまったのね」
結さんが、詰まった言葉の続きを受け取る。
大地はばつが悪そうにまた頷いた。
「お母さん、祝って欲しかったって泣いてた。あと二ヶ月と少しだったのに、約束したのにって」
祝えなかった誕生日。
それを知って俺は、喉が締め付けられるような思いがした。
27: 1:2011/12/13(火) 22:33:10 ID:XaSSnJluPk
大地の母親の誕生日は、まだ来ていない。
俺は間に合わなかったけれど、彼なら。
「だから、どうしても行きたいんだ。おれ、このままだったら嘘つきになっちゃう」
大地が顔を上げて、きっと結さんを睨み付ける。
結さんは表情を変えないまま、凪いだ瞳で大地を見つめ返していた。
「仕方のないことなのよ。死ぬのはいつか、誰にも分からない」
「でも!」
「君はもう、一度現世に帰ってしまった。一度きりの権利を、もう使ってしまったのよ」
結さんはきっぱりと言い切った。
取り付く島もなかった。
28: 1:2011/12/13(火) 22:33:54 ID:XaSSnJluPk
耐えきれず俺は口を挟む。
「結さん、そんな無慈悲な」
「憩は黙ってて」
すげなく制止されて俺は口を噤んだ。
依然として真顔のままの結さんが、続けて語る。
「私は総合案内事務所の責任者なのよ。そんなこと、許可できる訳がない」
結さんは頑なだった。
ずっと気丈に結さんを睨んでいた大地も、ついに視線を落とす。
「そんな……」
大地の小さな声が、応接室の机に落ちて、吸い込まれていった。
29: 1:2011/12/13(火) 22:34:31 ID:XaSSnJluPk
「そうよ、認められない。この書類に、君が現世に降りた記録が確かに残っている」
結さんは立ち上がると、手にした書類をかざして見せた。
悔しそうにそれを見つめる大地の前で、何故かくるりと踵を返す。
「……結さん?」
結さんは淀みない足取りで応接室を出ると、雑多な机の横にしゃがみこむ。
追い掛けて部屋から覗き込む俺と大地の目の前で、おもむろに結さんは。
書類をシュレッダーにぶちこんだ。
30: 1:2011/12/14(水) 12:12:50 ID:zfaQV.HN9M
「あ――っ何してんすか!!」
真っ先に声を上げたのは俺だった。
冗談じゃない、何てことを。
慌てて駆け寄ってもシュレッダーは書類を半分以上飲み込んでしまっていて、もう復元は無理そうだった。
「ちょっと結さん!酷いじゃないですかこれ、まだパソコンに記録移してないのに!」
「それなら好都合、もう記録はどこにも残ってないわね」
にっ、と結さんが口だけで笑う。
「書類なんて、最初からなかったのよ」
31: 1:2011/12/14(水) 12:13:25 ID:zfaQV.HN9M
あ、と思わず声が漏れる。そういうことだったのだ。
大地が現世に戻った記録は存在しない、だから行ったことがあることにはならない。
「……って、乱暴すぎやしませんか」
「何のことかしら、私は何もしてないわよ」
しゃあしゃあと言い放つ結さんに、頭を抱えたくなる。
実際頭を抱えた俺の横を通って、結さんは大地に歩み寄った。
「……という訳だから、君の記録を新しく作るわ。現世に行ったことは?」
視線の高さを合わせて、にこりと笑う。
大地は大きく目を見開いて、結さんのことを見ていた。
32: 1:2011/12/14(水) 12:13:53 ID:zfaQV.HN9M
「ない!」
「分かったわ。あっちで手続きするから、必要事項書いてね」
結さんが窓口の方に大地を促す。
しかし大地は少し迷ったように足を止めると、俺らに向き直って大きく口を開いた。
「あのっ、ありがとう、ございました!」
大声の感謝に結さんと顔を見合わせて、俺は笑顔を零す。
「何のことやら」
「変なこと言うわねえ」
俺たちがくすくすと笑う間で、大地は照れくさそうに頭を掻いていた。
33: 1:2011/12/14(水) 12:14:28 ID:zfaQV.HN9M
「……良かったんですか、あんなことして」
静かになった事務所の中、画面から目を離さずに問い掛ける。
また冷めてしまったミルクティをちびちびと飲みながら、結さんは白い天井を仰いだ。
「駄目よねえ、普通」
「駄目なんじゃないですか!」
キィを打つ手を止めて振り向けば、結さんが舌を出す。
「しちゃったもんは仕方ない。てへぺろ」
「おい」
そろそろ突っ込みにも疲れてきましたよ、と軽口を叩けば結さんがマグカップを置いた。
34: 1:2011/12/14(水) 12:14:56 ID:zfaQV.HN9M
「だって君、泣きそうなんだもの」
結さんがぽつり、言葉を落とす。
俺は静止した手をゆっくりとキーボードに戻すと、かたん、とエンターキィを押した。
「……そうでしたか?」
「ええ」
結さんは綺麗に笑った。
俺はまだ、点滅するカーソルを見つめたままでいる。
「君に免じて特別よ。部下思いの良い上司でしょ」
結さんが鼻歌でも歌い出しそうな様子で席を立つ。
俺は彼女がマグカップを持って恐らく給湯室に歩いて行くのを、気配だけで感じていた。
35: 1:2011/12/15(木) 18:10:02 ID:/UGBUXLJ6g
いつも静かなこの事務所が、今はさらに静けさを増す。
応接室のソファで仮眠するという結さんが部屋を出てから、俺はひとり今日とてパソコンの打ち込み作業を続けていた。
真面目で仕事熱心だとか、そういう訳ではない。
ただ、ここに来てから、他にやることなんて何もないから。
「あ――……」
とはいえ疲れた。眼球が限界だ。
少し気分転換をしようと立ち上がると、何を引っ掛けたか、山積みの書類がばさばさと雪崩れ落ちる。
そういえば、切っ掛けは書類雪崩れだった。
俺は書類を拾い集めながら、しばし追憶に耽ることにした。
36: 1:2011/12/15(木) 18:10:46 ID:/UGBUXLJ6g
俺が結さんと出会ったのは、現世に降りた直後だった。
正確に言うと現世行きの手続きをするときに話したはずだが、そのときには受付の人くらいの認識しかしていなかったから、多分。
折角のチャンスを踏みにじって無駄にして、何もできなかった。
そんな思いにとらわれながら、そういえば戻ってきたら報告に行かなくてはいけなかったと機械的に足を進める。
辿り着いた窓口には、うず高く積まれた書類の山に隠れるようにして、受付の女の人が座っていた。
37: 1:2011/12/15(木) 18:11:33 ID:/UGBUXLJ6g
「ん、あれ?さっきの子よね。もう帰ってきたの」
「……、はい」
彼女が驚いたように俺を見上げた。
俺が頷くと、そう、とだけ言ってペンを置く。
そのまま書類の山を念入りに調べると、呼吸を整えて、ある一束を勢いよく抜き取った。
「……完璧だわ」
「何やってんですか」
山はびくとも動かない。
俺は呆れて溜め息をついた。
38: 名無しさん@読者の声:2011/12/15(木) 19:08:20 ID:GH7i5DEIyQ
支援〜!
次するときはあげていい?(´・ω・`)
39: 1:2011/12/16(金) 10:35:18 ID:A1avxOZkx2
>>38
支援ありがと(・∀・)
さげてんのは気分なんで、いつでもドゾー
40: 1:2011/12/16(金) 10:38:15 ID:/UGBUXLJ6g
「現世はどうだった?」
書類に何やら書き込みをしながら彼女が尋ねる。
俺は少し嫌悪を覚えながら、別に、と呟いた。
「特に何も」
「次に進んで行けそうかしら」
「進むって……?」
もう俺は死んでいる。
二十年間と少し生きて、死んで、その次と言ったら。
「生まれ変わったり、するんですか」
41: 1:2011/12/16(金) 10:38:48 ID:/UGBUXLJ6g
問い掛けると、彼女はペンを持ったままけたけたと笑った。
「多いのよねえ、そういう質問」
「どうなんですか」
俺は重ねて尋ねた。語調が強くなるのを感じた。
彼女は俺を一瞥して、ペンを置く。
「どんな人間だって死ねば一緒よ」
フラットな声が、鋭く、さくりと、酷くまっすぐに突き刺さった。
「生まれ変わりなんて器用なこと、ある訳がないじゃない」
42: 1:2011/12/16(金) 10:39:17 ID:/UGBUXLJ6g
はい手続き完了、行っていいよと彼女が書類を山に戻す。
でも俺はその場を動かなかった。
「俺は、生まれ変われないんですか」
「そっくりそのまま魂が転生、なんてことはないわよ」
まあ私も経験したことないけどね、と無責任にも彼女が言う。
俺は息を吐いて、きつく握った拳を解いて、それから、少し迷ってもう一度、手のひらを握り締めた。
生まれ変われないらしいという情報は、自分にとっては由々しき問題だった。
ならばせめて、と俺は口を開く。
「ここに、留まることは?」
43: 1:2011/12/16(金) 10:39:45 ID:/UGBUXLJ6g
彼女は眉をひそめた。
「健康的な考え方じゃないわよ、それ」
「知っています」
また面倒な子が来たものね、と頭を抱える彼女に負けじと見つめていると、彼女はあのね、と前置きをしてから語りだした。
「ここはね、人生の終着点なの。命が尽きる場所で、次の命との境界」
とん、と彼女は物のない僅かなスペースで机を叩いた。
終着点。そんなことくらい分かっていた。
「分かるでしょう?本来、留まるべき場所ではないのよ」
44: 1:2011/12/16(金) 10:40:17 ID:B7K.t.o2jo
「それでも、俺は」
引き下がる訳にはいかない。
俺は生まれ変わらなくてはいけなかった。
それが無理でも、せめて俺のままでいなくちゃならなかった。
「強情ね……」
やれやれと彼女が頭を抱える。
その拍子に腕が、横に積まれた書類の山を、盛大に引っ掛けた。
45: 1:2011/12/17(土) 12:14:51 ID:YW2VpLC90c
「っぎゃあああ!?」
色気も糞もない叫び声を上げて彼女が視界から消えた。
椅子に座った彼女の座高より高い位置から落ちてきた書類が、机の上を埋め尽くす。
山はひとつやふたつではなかったらしく、崩れた山の隣からも次々と書類やファイルが滑り落ちて。
いっそ見事な雪崩だった。
46: 1:2011/12/17(土) 12:15:31 ID:YW2VpLC90c
「……大丈夫ですかー」
恐る恐る声をかけると、何とか彼女が頭を引っこ抜く。
「またやっちゃったわ……」
どうやら日常茶飯事らしい。
そのまま書類の上に突っ伏す彼女に気が抜けてしまって、俺は乾いた笑いを漏らした。
「それにしても、何でまたこんな」
「仕方ないでしょう、たくさん記録があるんだから」
「それにしたって、パソコンに保存するとか」
俺の言葉に、彼女が無言で背後を指差す。
その先では雑然としたオフィス机の上に、完全に書類に埋まったキーボードらしき物が覗いていた。
47: 1:2011/12/17(土) 12:16:07 ID:YW2VpLC90c
「使わないんですか」
「私の機械オンチを舐めないでほしいわ」
どや顔で言い放つ彼女に呆れ返る。
データを打ち込むくらい、誰にでも出来そうなものだけれど。
散乱した書類を取り上げた彼女が、ふと俺に向き直る。
「……そうだ、君、パソコン使える?」
唐突な質問に、俺は少したじろいだ。
「一応、使えますよ。これでも理工学系なんで」
「それは好都合」
彼女がにっと口を吊り上げる。
最高に良いことを思い付いたとでもいうような、楽しげな笑顔だった。
48: 1:2011/12/17(土) 12:16:38 ID:YW2VpLC90c
「君を雇うわ、中谷憩くん」
手にしたペンを突きつけて、彼女が高らかにのたまった。
あまりに突然で一方的な雇用宣言に、俺は思わず聞き返す。
「はあ?」
「君、ここに残りたいならちょうど良いじゃない。残っていいわよ、暫くはね」
「ていうか、何で俺の名前」
「書類に書いたでしょ。君はここに居られる、私は書類を片付けてもらえる。はいギブアンドテイク完成」
「ええー……」
そんな軽いノリでと思わなくもないが、よくよく考えれば確かに良い話かもしれない。
49: 1:2011/12/18(日) 18:24:58 ID:7cMpp1kMaE
「君が残るべきでないことは変わらない」
彼女が続ける。
俺はそっと耳を傾けた。
「だからここで働いて、色々な話を聞くといいわ。……きっと前に、進みたくなる」
彼女の言うことの真意を、俺ははかりかねていた。
既に命を失って、存在すら危うい自分が、完全に形をなくすことを望むようになるとは、到底思えなかった。
それでも。
「……よろしく、お願いします」
俺はきっぱりと前を向いて言い切った。
50: 1:2011/12/18(日) 18:25:51 ID:7cMpp1kMaE
この先に行きたくなるかなんて、今の俺には分からない。
きっとそんなことはないだろうとさえ思っている。
それでも結論を待って、とりあえずはこの場所に残れることは有り難かった。
「決まりね」
彼女が書類をまとめながらにこりと笑顔を作る。
「これから君の肩書きは、東京ターミナル駅総合案内事務所副責任者」
「いきなりですか」
「ここ、私しかいないもの」
しゃあしゃあと衝撃的な発言をする彼女に、やっぱりやめようかと思ったのは秘密だ。
51: 1:2011/12/18(日) 18:26:34 ID:7cMpp1kMaE
「……言うのが遅れたわね。私の名前はユイ。結ぶ、って書く方の結よ」
彼女――結さんが、居住まいを正して向き直る。
「よろしくね、憩」
何故だか結さんが目を伏せて、それから俺を見て、少し痛そうに、とても綺麗に笑ってみせるものだから。
「こちらこそ」
その訳も聞けないままに俺は、出来るだけ誠実に頭を下げたのだった。
52: 1:2011/12/18(日) 18:27:14 ID:7cMpp1kMaE
「あーよく寝た……」
ふわあ、と辛うじて妙齢の女性にあるまじき大欠伸をかました結さんを横目に、おはようございますと呟く。
「おはよう。憩は元気ねえ」
「まあ若いので」
「嫌味かコラ」
そうは言っても然程怒っていないようで、結さんは相変わらず眠たそうに机の周りを徘徊する。
毛布を被ったまま、端を引き摺って歩き回る姿は滑稽にも見えるが、本人は気にしていないようだった。
53: 1:2011/12/18(日) 18:28:46 ID:7l16fIcLfY
あの日の表情の理由を、俺は今も聞けずにいる。
尋ねるような機会もなかったし、どう切り出せば良いのかも分からない。
何より、果たして踏み込んで良い領域なのかも分からなかった。
「いーこーいー」
「今度は何ですか」
「てい」
呼ばれて振り向くと、顔面に何かが直撃する。
いきなり何するんですか、と文句を言いながら見てみると毛布だった。
54: 1:2011/12/18(日) 18:29:18 ID:7l16fIcLfY
「っしゃ!」
「何なんですかもう……」
毛布が命中したのが余程嬉しかったのか、結さんがガッツポーズをとる。
流石に使っていたのとは別の毛布を投げたらしく、まだ端を引き摺ったままの結さんがご機嫌で給湯室に向かう。
「たまには休みな、若者よ」
給湯室から体半分だけを出して、結さんがひらひらと手を振った。
全くこの人は、大人なんだか子供なんだか。
「分かってますよ」
俺は小さく苦笑してから、毛布を抱えて席を立った。
55: 名無しさん@読者の声:2011/12/18(日) 21:03:50 ID:0GgQbx5.dA
支援っ
ときに作者さま、SS絵スレで描かせて頂いてもよろしいでしょうか…?
もし許可を頂けるなら、キャラクターの外見イメージ等あれば教えて頂けると嬉しいです
56: 1:2011/12/19(月) 14:02:55 ID:XaSSnJluPk
>>55
むしろ描いてくれるんですか((;゚Д゚)))余裕でおkっす、お願いします
キャラのイメージとかは特にないので、好きにやっちゃってくだしあ(^ω^ )
支援ありがとでした!
57: 1:2011/12/19(月) 15:10:54 ID:/UGBUXLJ6g
東京ターミナル駅が存在するのは、死後の世界、所謂あの世である。
つまり総合案内事務所の利用者は、全員が死者であって。
必然的に落ち着き払った年配の方が多くなる訳で、さらに言えばそういう人々は大抵すんなり死を受け入れる訳で。
結果どうなるかと言うと、目立っていたり問題を抱えていたりする客のほとんどが、比較的若い人々になるのだ。
「ねえ君、本当にいいの?」
慌てたような結さんの声に窓口を見れば、案の定相対していたのは制服姿の女子高生だった。
58: 1:2011/12/19(月) 15:11:32 ID:/UGBUXLJ6g
「いいんです、あたし未練とかないし。それより早く成仏させて下さいっ」
女子高生がつんけんとした口調で結さんに食って掛かる。
結さんは貼り付いた笑顔で必死に宥めようとしていた。
「でも親御さんとか悲しんでるんじゃない?現世に行って、最後に顔くらい見てくるべきよ」
「はぁ?あんな親悲しむ訳ないし!後処理とか世間体気にするだけですよ、どーせ」
これはまたひねくれた子が来たものだ。
面倒な客の対応は、大方予想がつくようになっている。
俺はおもむろに立ち上がると応接室の鍵を開けた。
59: 1:2011/12/19(月) 15:12:10 ID:/UGBUXLJ6g
「そう言わずに……落ち着きましょうよ」
あーめんどくせえ、と結さんの背中に書いてあるのがそろそろ見えてきた。
その間に俺は、紅茶で構わないだろうかなどと思案しながらとりあえず湯を沸かす。
「じゅーぶん落ち着いてますっ。あたしはただ、一刻も早く幽霊脱出したいの!」
「でもほら、皆突然のことで、きっとショックを受けてるわ」
いよいよヒートアップしてきた言い合いを聞き流しながら接客用のティーカップを出していると、女子高生が急に声を硬くした。
「突然じゃないですもん。だって」
瞬間、きんと冷えた言葉が耳を貫いた。
「死んでやる、って言ってきたんだから」
60: 1:2011/12/20(火) 12:42:06 ID:XaSSnJluPk
結さんが一瞬硬直する。
自殺ということか。
「お話の途中で失礼します」
俺はすかさず窓口の方に近寄ると、女子高生に会釈した。
「こんな場所でも何ですから、中にいらしたらいかがですか」
そう提案すると結さんは、はっとしたように俺を振り返る。
「憩、応接室」
「開いてます」
「ならよろしい」
結さんはいつものペースを取り戻したようだった。
女子高生に向き直ると、びしりとペンを突き付ける。
61: 1:2011/12/20(火) 12:43:01 ID:XaSSnJluPk
「という訳だから中で話しましょう」
「何でそんな面倒なこと、」
「成仏させたげないわよ」
結さんの脅しに、女子高生がぐっと詰まる。
どうやらこのままで居るのは嫌らしい。
「……分かりました」
「おっけー、行きましょ。あと憩、沸騰してるわよ向こう」
「あっ」
不覚。
俺はぐらぐらに沸いたやかんの火を止めに、慌てて給湯室に走ったのだった。
62: 1:2011/12/20(火) 12:43:58 ID:XaSSnJluPk
「えーと、高橋美郷さん享年十七歳。高校二年生?」
「はい」
結さんが書類を見ながら確認をとる。
女子高生は随分と大人しくなって、紅茶のカップを口に運んでいる、が。
「……なんか嫌ですね享年て言い方」
「うるさいわよ」
叱られた。思ったことを言っただけなのに。
俺は大人しく口を噤んでいることにした。
63: 1:2011/12/20(火) 12:44:27 ID:XaSSnJluPk
「一体何があったの?」
結さんが単刀直入に尋ねる。
美郷は拗ねたようにセーターの裾を弄りながら、ぼそぼそと呟いた。
「別に、大したことじゃ」
「そんな訳はないでしょう」
結さんの声がふいに優しくなる。
「こっちに来てしまったからには、もう現世のことは変えられないわ。でも、話を聞くことならできる」
俺はちらりと結さんを見た。
ああ、この人は、助けようとしているんだ。
64: 1:2011/12/20(火) 12:44:54 ID:XaSSnJluPk
「話して、くれないかしら」
美郷はゆらゆらと目を泳がせて、相変わらずほつれたセーターの裾をもてあそんでいた。
どうして迷っているのか、何を思っているのか、外からでは何も、見ることはできないけれど。
「……親が、離婚するんです」
ぽつり、そう言ってからは、美郷は驚くほどすんなりと事情を話し始めた。
65: 名無しさん@読者の声:2011/12/20(火) 18:07:03 ID:lcY6txYbiA
支援!!
(`・ω・)つCCCCCC
66: 1:2011/12/21(水) 09:41:34 ID:XXnWtGX0ys
>>65
あざす!!(`・ω・´)
支援してくれる人愛してるペロペロ
67: 1:2011/12/21(水) 10:03:57 ID:4SVeeV6rxk
「あたしの家、あんまし親が仲良くなくて。そこまで酷いのされたことはないけど、八つ当たりとか、とばっちりは昔から」
口火を切ってしまえば後はもうなすがままで、美郷は特にためらう様子もなく話し続ける。
「世間体気にする人達だったから学校には行かせて貰えたけど、親はもう頼りにならなかった」
かたん、と結さんがカップを置く。
もう必要ないとでも言うように、手にした書類を揃えて、そっと机に伏せた。
「離婚の話が始まったのは、もう一年も前のことです」
美郷は記憶の糸を手繰るように、遠くを眺めながら事の顛末を語り出した。
68: 1:2011/12/21(水) 10:04:32 ID:4SVeeV6rxk
「離婚は大方順調みたいでした」
美郷は言う。
セーターの裾はもう弄らずに、ただきつく握り締めるのみになっていた。
「お金のことも、特に揉め事もなさそうで、どんどん話は進んでいった。でも」
美郷が言葉を切る。
「あたしのことだけは、言い争っているようでした」
69: 1:2011/12/21(水) 10:05:12 ID:4SVeeV6rxk
耐えきれず俺はカップを取り上げた。
口に中身を流し込めば、やや冷めた苦い液体が喉を通って落ちる。
「……毎晩、聞こえるんです。あたしを押し付けあう声が」
美郷は笑顔を貼り付かせた。
そうせずには、いられなかったのかもしれない。
「収入が多いあなたが引き取るべきだ、母親が世話をするべきだって、それだったらいっそひとりで生きてくって言ったのに、それは許してもらえなかった」
諦めたような笑顔は不気味だった。
70: 1:2011/12/21(水) 10:05:41 ID:4SVeeV6rxk
「他のことでは何も揉めてなかったのに、あたしだけ。……成績は、下がりました」
俺はカップをソーサーに置く。
かちん、と陶器の触れ合う音が、静かな部屋にやけに大きく響いた。
「自分で色々やって、学校では普通な振りをしてたんですけど、あたしの学校、頭良いとこだから、必死でやんないとついてけなくて」
あたし馬鹿だから、と美郷が自嘲気味に笑う。
でもそんな頭の良い学校に、入ったのは彼女の努力ではないんだろうか。
「成績は下がるし繕えなくなるし、薄々同じグループの子にも感付かれて」
彼女は同級生のことを、友達とは呼ばないようだった。
71: 1:2011/12/22(木) 11:47:22 ID:agmpcxXNZc
「……限界でした、そろそろ」
疲れきったように美郷が呟く。
ここでは言っていなくとも、心の奥底にはもっと沢山の、渦巻いている思いがあるんだろう。
その全てに押し潰されそうになって、それでも彼女は足掻いていたんだろう。
「ある日帰ると、珍しく母親だけが家にいて、居間のソファでぐったりと座っていました」
美郷の声がふいに感情を失くした。
口振りで、その日が近付いていることが分かった。
「何してんの、って聞いたら、休憩中、って言われて。疲れてんの、って言うと、誰かさんのせいで、って」
72: 1:2011/12/22(木) 11:48:04 ID:agmpcxXNZc
「お母さんの愚痴は、そこから始まりました。第一あの人が家庭に関わらなかったのがいけなかいとか、女が子育てするのを当然と思ってるとか」
美郷の指先は、既に白くなっていた。
強く握りすぎて血の通わなくなってしまった手を心配しながら、俺は話に聞き入る。
「あんたもそう思うでしょう、って言われたんです。あんたもあの父親が、無責任な人だって、って」
握り締めた拳とは裏腹に、淡々と美郷は語る。
「そこでぷつん、て切れちゃって。あたし言ってやりました。無責任なのはお母さんの方だ。産んで育てて養っといて、今更それはないんじゃないって」
73: 1:2011/12/22(木) 11:48:40 ID:agmpcxXNZc
美郷は依然として平坦な口調で語る。
表情はないに等しく、その目は据わっていた。
ただひとつ、握り締めた手だけが、かたかたと震えていて。
「産まなきゃよかったじゃん、って。最初から責任取れないなら産むなって、それで」
「もういいわ」
美郷が弾かれたように結さんを見る。
結さんは酷く傷ついたような顔をしていた。
「……もう、いい」
美郷が黙りこくる。
俺は何も言えなかった。
74: 1:2011/12/23(金) 13:42:45 ID:A1avxOZkx2
結さんが目を伏せて、ティーカップを口元に運ぶ。
器は違えど、いつも通りのミルクティ。
彼女はゆっくりと口からカップを離すと、そっとソーサーの上に戻した。
「飛び降り自殺、だったわね。どこから?」
「……学校の、屋上」
ばつが悪そうに美郷が答える。
結さんはもう一度書類を手に取って、そう、と呟いた。
「美郷ちゃん、あなたやっぱり戻りなさい」
結さんが言うと、美郷がばっと顔を上げる。
75: 1:2011/12/23(金) 13:43:42 ID:A1avxOZkx2
「ちょ、お姉さん今の話聞いてた?あたしは戻っても、やることなんてないんですっ」
「いいから戻りなさい」
結さんは断固として命じた。
「あなたの都合なんて知らないわ。必要だと判断したから行ってもらう。切符ならここにあるわよ」
「そんな身勝手な」
「勝手で結構。早く行きなさい」
いつの間に用意していたのか、現世行きの切符を結さんがちらつかせる。
美郷は先程とは打って変わって、顔を真っ赤にして身を乗り出した。
76: 1:2011/12/23(金) 13:49:02 ID:/5FRZFy.DE
「分かってないでしょ、あたしがどんなに……!」
「私の知ったことではないわ」
「ちょっと、結さん」
それはあまりにあまりなんじゃないか、と思って口を挟むも、結さんは俺を相手にしない。
ずいと美郷に額を突き合わせて、一段と低い声で呟いた。
「言うこと聞かないと――生き返らすわよ」
途端に美郷の肩が揺れた。
「そんなこと、できる訳……」
「さあどうかしら。私これでも責任者だから」
結さんがにこりと、気味が悪いほど完璧に笑う。
77: 1:2011/12/23(金) 13:49:37 ID:/5FRZFy.DE
「折角ここまで来たのに、全部逆戻りよ?あなたは死に切れなかった根性なし、もっと面倒な人生が待ってるわ」
「…………っ!」
美郷が唇を噛む。
そのまま結さんと睨み合うこと、しばし。
「――分かったわよ行けばいいんでしょ行けば!」
机の上の切符をもぎ取って美郷が吐き捨てる。
大股で部屋を出る美郷を見送りつつ結さんは、分かればいいのよ、などと暢気にミルクティを飲んでいた。
78: 1:2011/12/23(金) 13:50:13 ID:/5FRZFy.DE
どたばたと大袈裟な足音が遠ざかるのを確かめて、気になっていたことをひとつ。
「……生き返らせたり、できるんですか?」
優雅にカップを口に運ぶ結さんを、見下ろしながら俺。
「やあね、はったりよ」
カップを離して顔色ひとつ変えずに、結さん。
いけしゃあしゃあと抜かす結さんに、とんだ狸がいたものだと、俺は密かに溜め息をついた。
79: 名無しさん@読者の声:2011/12/24(土) 00:23:14 ID:DBnsn4YRhE
許可ありがとうございます!
SS絵スレに上げさせていただきました(・∀・)
そして支援っ
80: 79:2011/12/24(土) 00:33:23 ID:tBLCdDOP22
下げ忘れ申し訳ありませんでしたorz
81: 1:2011/12/24(土) 00:41:21 ID:/UGBUXLJ6g
>>79
拝見しました!
素敵絵本当に感謝っす、嬉しさで布団ばすばすしたのはここだけの話www
sageは本当に気分なんで、気にせずageたいときにご自由にドゾ(・∀・)
支援感謝です
82: 1:2011/12/24(土) 12:15:40 ID:YW2VpLC90c
美郷が応接室を出ていってから、もう一週間になる。
彼女があれからどうしたのか、俺には見当もつかない。
「憩、そこのバインダー取って。赤いやつね」
要求に応えてバインダーを手渡すと、結さんはありがと、と言ってさっさと窓口の方に戻ってしまった。
結さんはあれから特に変わった様子もなく、いつも通りに業務をこなしている。
一度美郷について尋ねてみると、どうやら切符は一週間の滞在で発行したらしい。
まだこちらに戻っていないのであれば、今日辺りには帰ってくるはずなのだが。
83: 1:2011/12/24(土) 12:16:21 ID:YW2VpLC90c
「あ、そうだ憩ー」
「はいー?」
つられて語尾を伸ばしながら振り向くと、結さんがバインダーを見つめたままで言った。
「ホームまで迎えに行ってあげて。そろそろ帰ってくるから」
「え?」
「美郷ちゃんよ。一週間経ったでしょ」
絶対ギリギリまでいたはずよ、と結さんが何かの書類を抜き取る。
つくづくノリが軽いよなと思いつつ、俺を行かせようとする辺り気にしてはいるんだろう。
84: 1:2011/12/24(土) 12:17:05 ID:YW2VpLC90c
俺は分かりましたと返事をすると、データを保存してパソコンを切った。
「12番線ね、もうすぐ来るわよ」
「了解、行ってきます」
行ってらっしゃい、と気の抜けた挨拶を背中に受けて俺は事務所を後にする。
そういえばここで働き始めてから外に出ることが少なくなったと、なんとなく思った。
人と離れていた気分はしない。
あの場所には、色々な人が訪れる。
ただでさえ人の集うターミナルで、事情を抱えた人達がやって来る場所だからかもしれない。
85: 1:2011/12/24(土) 12:17:34 ID:YW2VpLC90c
中央ホールの人混みを抜けて、ホームに続く階段が並ぶ廊下へ。
こちらに来ると随分と人もまばらで、すれ違う人に思わず会釈する。
永遠に続くような廊下の手前から、俺は表示を見つつ順に数えていった。
こちら側から、数字の大きい方へ。
廊下の突き当たりに何があるのかを、俺はまだ知らない。
「12番線……っと」
教えられた番号に辿り着いて見上げると、階段の上の方からごうんごうんと車輪が滑る音が聞こえてきた。
86: 1:2011/12/25(日) 20:31:03 ID:7l16fIcLfY
「高橋さん」
年下の女の子をどう呼ぶか、迷った結果がこれ。
振り向いた彼女は驚いたように目を眇めて、俺を呼んだ。
「案内事務所の、おにーさん」
「覚えてて貰えて何より」
正直本当に自信はなかった。
俺空気だったからね、と笑ってみせると、美郷も確かにと言って笑う。
刺々しい雰囲気はもうなかった。
ただ無理をしている笑顔が、ひたすらにぎこちなかった。
87: 1:2011/12/25(日) 20:31:56 ID:7l16fIcLfY
一緒に階段を降りながら、結さんの待つ事務所に向かう。
自分より小さい身長と歩幅に、妙に昔のことを重ねてしまって、俺はくだらない思いを振り払おうと口を開いた。
「現世はどうだった?」
俺は触れても構わないものかと思案しながら、特に話題もないので尋ねた。
美郷はんー、と考え込むように顎に手を当てて、言葉を欠片にする。
「分からなく、なった、かも。色々」
「そっか」
彼女の歩幅に合わせながら、俺は歩く。
色々と掘り下げることは、気が引けるような気がした。
88: 1:2011/12/25(日) 20:32:45 ID:7l16fIcLfY
「あたしね、高橋じゃなくなるっぽかった」
美郷が言う。
俺ははっとして彼女の横顔を見つめた。
「そう決まったから、お母さんは愚痴ったみたい。皮肉だよね、やっと終わったのに、終わった瞬間にキレちゃってたなんて」
俺は美郷を高橋さんと呼んだことを後悔した。
そっか、と相槌を打つことはできなかった。
「なんかね、不思議」
美郷が遠くを見つめながら、ぽつぽつと続ける。
「あたしはもうあそこにいないのに、生きてた頃よりも、ずっと存在感があるの」
89: 1:2011/12/25(日) 20:33:24 ID:7l16fIcLfY
恨んでいるようでも、悲しんでいるようでもなかった。
美郷の様子はどちらかと言えば、呆けているように見えた。
「……着いたよ」
俺は静かに彼女を遮る。
そうしている内に俺らは、事務所の前にまでやって来ていた。
扉を開けてやれば、美郷がどうも、と言ってそこを抜ける。
後は結さんの領域だった。
90: 1:2011/12/25(日) 20:33:58 ID:7l16fIcLfY
「久しぶりね、美郷ちゃん」
結さんが窓口からくるりと椅子を回して振り返る。
美郷は一週間前の別れ方でも思い出したのか、少しきまりが悪そうにぺこりと頭を下げた。
「憩、応接室」
「留守番してたなら開けといてくださいよ」
俺が文句を言うと、知ったことかと言わんばかりに結さんが伸びをする。
「うわ今ばきっていったばきって」
「知りませんよ」
美郷が来てもなお態度の変わらない結さんに若干の不安を覚えつつ、仕方ないので俺は準備に向かったのだった。
91: 1:2011/12/26(月) 14:55:08 ID:7l16fIcLfY
湯気の立ち上るティーカップ。
相も変わらず結さんは、優しい色のミルクティ。
それを静かに吹き冷まし、満を持して結さんが切り出した。
「思っていたのと、違ったでしょう」
最初から核心を突いた言葉に、俺は身体を硬くする。
美郷はきゅっとセーターの裾を握って、小さく頷いた。
「お母さんが、泣いてたんです。あんなに嫌がって、押し付けあっていたのに」
美郷はまだ戸惑っているようだった。
視線が揺れて、手元に落ちる。
92: 1:2011/12/26(月) 14:55:47 ID:7l16fIcLfY
「ふたりとも、あたしのために押し付けあってた。進路のことや、一緒にいられる時間を考えて」
自分がいない場所でそう言っていた、と美郷は言った。
口実ではなかったのだと、そういう意味なのだろう。
「こんなことになるなんて、って。部屋、揉めてる間もずっと綺麗だったのに、すごく荒れてて」
そこで美郷は黙り込んだ。
口をはくはくと動かして、でも声にならなかった何かを、呑み込んだようだった。
93: 1:2011/12/26(月) 14:56:22 ID:zfaQV.HN9M
「……学校の、お友達は?」
結さんが穏やかに尋ねる。
美郷はゆるゆると首を振った。
「友達だなんて思ってませんでした。だってトイレに行った瞬間に、その子の悪口を言うようなグループだったから」
だから期待なんてしていなかったと美郷は言い切った。
随分と殺伐とした交友関係だと思いながら、俺は紅茶を啜る。
「でも違った。あたしが死んでから何日も経つのに、昼休みのお喋りもしてなかった。あたしの席も、ちゃんと残ってたんです」
美郷の声が微かに震える。
94: 1:2011/12/26(月) 14:56:50 ID:zfaQV.HN9M
当然のことだと思う、クラスメイトの自殺に対する反応として。
でもそれは彼女にとって当然ではなかった。
「あたしが落ちたとこ、花束が置いてあって。先生がやったのかと思ってたら、グループの子がひとりで、こっそり置いてた」
美郷がやがて俯く。
結さんはそれを、じっと見つめていた。
「……分かったでしょう。君は死ぬべきじゃなかった」
結さんが口を開く。
美郷は何も言わなかった。
95: 名無しさん@読者の声:2011/12/26(月) 23:03:45 ID:6BiIRiFOyc
(´;ω;`)美郷ちゃん…
CCC
96: 1:2011/12/27(火) 00:56:48 ID:7l16fIcLfY
>>95
支援、感謝でつ
美郷は、タイミングや運が悪くて、
途中で直せたはずなのに、少しずつ拗れちゃって、
本当はこんなことにならずに済んだのに、って感じなんだ
なんとなく、書きながら
97: 名無しさん@読者の声:2011/12/27(火) 08:23:16 ID:o6D2/o4bEU
支援
良作に出会えたことに感謝
98: 1:2011/12/27(火) 14:40:11 ID:agmpcxXNZc
>>97
ありがとう
こっちこそ、読んでくれる人がいて感謝
99: 1:2011/12/27(火) 14:42:51 ID:agmpcxXNZc
「悲しむ人が、いたのよ」
結さんが重ねて告げた。
もう美郷の紅茶は冷めてしまったろうかと、俺は動かされていない様子のカップを見つめる。
美郷の指は、ずっとセーターを握ったままだ。
結さんはもう一度、彼女の名前を呼んだ。
「美郷ちゃん」
「――、だって」
美郷がきっと顔を上げる。
目元を赤くして、必死で何かを堪えているようだった。
100: 1:2011/12/27(火) 14:43:22 ID:agmpcxXNZc
「だって今更、知ったところで何になるんですか?自分で死んでからっ、そんな、勝手に」
堰を切ったように言葉が零れ落ち、美郷は顔を歪めた。
「死ななきゃよかった、なんて。今になって思ったって、全部遅いよ。こんな、後悔するくらいだったら、気付かなきゃよかった……!」
泣き出す一歩手前、ギリギリのプライドが、辛うじてそれを阻んでいるように見えた。
もうやり直せない。
それがこの世界で、最も残酷なことだと俺は思う。
どんな間違いを犯しても、生きている限りは何度でもやり直せる。
じゃあ、死んでからは。
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